シンガポールでの現地調査完了後のマラッカ観光(その1)
週末はジョホールバル(愛称はJB)経由でシンガポールからマラッカへ移動しました。朝6時半にはホテルを出発→市内の高速バスの発着地ブギズまでタクシー→乗り場窓口で日本から予約を入れていた高速バスのチケットを入手→乗車、そして出発。マラッカ(旧市街)に到着したのは13時過ぎでした。空腹の為、すぐに近くのレストランへ。そして、世界遺産マラッカ旧市街観光へ繰り出しました。
高速バスでマレーシアに移動する旅行客者の方へ
1. シンガポール域内、高速バス内での飲食は禁止です(他の乗客に注意されました)。ところが、一旦バスがマレーシアに入ってしまえば問題ありません。
2. シンガポールからマレーシアには出国手続きがあります。シンガポール居住者以外の日本人はマニュアルレーン(Manual Lane)に必ず並んで下さい。
3. 出国手続きの間、シンガポールから乗車してきたバスはバス乗り場に移動しています。電光掲示板(確か)に乗車ってきたバス番号が表示されているので容易に見つかります。運転手さんが乗客人数を数えています。人数が揃ったら出発です。
東西交易の重要な貿易港としてマラッカの栄華を極めた過去を今に残すヒーレンストリート(現名称:ジャラン・トゥン・タン・チェン・ロック、別名「億万長者通り」)にあるレストランです。
15~19世紀に掛けてパパ・ニョニャまたはブラナカン文化(海峡華人)が大いに栄えた場所です
説明:レストラン
説明:レストラン
ヒ―レンストリートからジョンカーストリート方面に展開。マレーシア人国内旅行客もとても多く人並みに圧倒されました。週末はナイトマーケットも開かれており大変な賑わいでした。
説明:レストラン入口
【歴史対比】
マラッカはその東西貿易中継地としての重要性により、16世紀当時のヨーロッパ列強(ポルトガル、オランダ、イギリス)からの占領を次々に受けました。
年代 | マラッカ | 日本 |
14世紀 | マレー半島に東西からの貿易船が行き交うようになる | |
1402年 | ヒンドゥ王国の王子がマラッカ王国を設立 | |
1511年 | ポルトガル、マラッカを占領 | 室町時代 1511年 富士山噴火 |
1602年 | オランダがケダとジョホールに貿易拠点を作る | 1603年 徳川家康が江戸幕府を開く |
1641年 | オランダがポルトガルを駆逐、マラッカはオランダの植民地となる | 江戸時代 長崎出島でのオランダ貿易開始 |
1786年 | イギリスのフランシス・ライトがペナンに上陸、占領 | 江戸時代 将軍職は徳川家斉に(老中田沼意次は御役御免) |
1795年 | オランダはイギリス東インド会社にマラッカを移譲 | 1795年 フランス革命戦争でオランダ敗北の余波を受けて長崎オランダ商館消滅。1797年 オランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカ商船が入港するようになった。 |