シンガポールでの現地調査完了後のマラッカ観光(その2)
【ムラカ・キリスト教会/オランダ広場】
マラッカ歩きのスタート地点となる場所です。この教会は、1753年オランダ統治時代に建設されました。内部にはタイル画の「最後の晩餐」が展示されています。
【セント・ポール教会】
マラッカがポルトガルの支配(1511年~1641年)下にあった1521年にポルトガル人船長によってセント・ポールの丘に小さな礼拝堂が建築されました。この礼拝堂は1548年にイエスズ会に譲渡され、1556年には増築されました。その後、オランダがポルトガルよりマラッカを争奪すると、オランダ人はその名前をSt. Paul’s Churchと改名、その後112年間使用しました。
その後、東アジアで覇権を争っていたイギリスがマラッカを支配しました。イギリス人は礼拝には用いず、弾薬庫として利用したそうです。
この教会は、日本にもキリスト教の布教のために渡来したイエズス会の宣教師・聖フランシス・ザビエルのご遺体が安置された所でも有名です。日本に旅立つ前のザビエルはマラッカに滞在をしていましたが1545年から1552年にかけて定期的にこの教会を訪れました。彼の死後、中国より運ばれた遺体はこの場所で9ヶ月間埋葬されました。その後、遺体が掘り起こされてインドのゴアへと送られました。?
長い歴史の中、カトリック(ポルトガル)に反発するオランダとイギリス(プロテスタント)の軍・民の度重なる攻撃を受けて教会は破壊され廃墟化しました。現在、敷地内には古い墓石が陳列されています。この場所がポルトガル人或はオランダ人が永遠の眠りにつく地であることの確たる証拠でもあります。
その礼拝堂の中には幾つかの墓石が壁に立て掛けてられています。墓石の中には1600年代中頃の古いものも入っているとの事です。 残念ながら、現在では誰が誰の墓石か不詳、"1660年"の年号が刻まれているものもあるそうです。 墓石には海賊のシンボルマーク"ジョリー・ロジャー" が描かれてるものもありました。
説明:教会内に配置された墓石
【マラッカ王宮博物館】
1396年に建国されたマラッカ王国のシンボルとして、初代パラメスワラ国王が建立した宮殿「マラッカ・ソルタン・パレス」を復元したとの事です。
設計図も残っていない歴史上の建築物だったが16世紀に著された「マラヤ年代史」(スジャマラユ)、「マラヤ王統記」などの文章から推察し設計図面を起こし1984年に復元されたとの事です。
伝統的な高床式のマレー建築を後世に伝える貴重な建造物となっています。巨大な木造建築だが釘(クギ)を一本も使わず、組木で建てられているそうです。マラッカ歴史のジオラマでの再現やスルタンに謁見する様子が人形で再現されていたり、2階はアクセサリー等の装飾品、三階は銃や剣などが展示されています。
【ポルトガルからやってきた帆船/マラッカ海洋博物館】
1509年、喜望峰を廻ってインドにたどり着き、マラッカを発見したポルトガルの1船の帆船。東西交易の基地港だったマラッカの繁栄を見てポルトガル人船長は「世界で一番繁栄している港」と絶賛したそうです。東南アジアの香辛料はこれらアジア商人からインドを経由、トルコまで運ばれます。地中海を我が海と呼称した当時最大の海洋国家をベネチア経由して、ヨーロッパへと運ばれました。
最西端ポルトガルでの価格は「金」並みまで上昇しました。上陸から数年の後に、ポルトガルは近代兵器の大砲や鉄砲で、マラッカ王朝を撃破占領しました。マラッカ王宮を焼き払い自分たちの占領地を守る城壁と要塞を建設、香辛料貿易で稼いだ莫大な財貨を本国へと送りました(世界史のおさらい)
貴重な財宝を積み母国へ帰る途中、マラッカ沖に沈んだポルトガルの交易船「フロール・デ・ラマール丸」を復元されて現在は海洋博物館となっています。
内部では当時の貴重な資料が展示されて一般に公開されています。
説明:リキ車のおじいさん運転手さん(サンチャゴ砦から載せて頂きました)
説明:海洋博物館 (別名 ポルトガルの沈没船)
説明:現代のマラッカ海峡。日本のシーレーンが通っている海